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「海外移住で体験したこと考えた事。三十年で出会ったもの」
東南アジアで着実に発展してきたタイ。この激動の時代三十年を起業家として生きた著者の、七転八倒の人生を伝えたい。ビジネスやプライベートで出会った人や家族、市民を従わせる者としか考えない官僚たち、ルール無用の商売人たち、偶然出会ってしまった事故や事件、経験を通し考察したこの国の社会、歴史まで。
著者: 小川邦弘
日本税理士合同事務所タイランド ogawa@nihon-zeirishi-cooperate.com

マイペンライの不思議

タイで最もよく聞く言葉、それは「マイペンライ」。外国人が初歩タイ語の勉強をすれば必ず最初の頃に出会う言葉でもあろう。マイは否定語、ペンは~である(英語のis)、ライは「何」の意であるアライが縮まったもの。したがって直訳は「なんでもない」なのだが、このことばは色々な意味で使われる。

大丈夫、結構です、気にしない、どういたしまして、等々。よく言われるのが、この言葉がタイの人達のおおらかな国民性を表しているという評価だ。これは誰でも実感できることである。この国の居心地の良さはまさにこのマイペンライな人たちによってもたらされている、と言ってよいだろう。
 ただ、マイペンライな人々の中で気持ち良く生きてゆくには、こちらもマイペンライな人にならなければ、当然不公平ということになる。昨今の日本社会は特に神経質でヒリヒリした人間関係で成り立っているので、マイペンライな社会とは真逆の関係にある。高度に緊張を強いられるビジネスの中では小さな誤りも見過ごすことができない。それをマイペンライな部下や社員、あるいは取引先のスタッフにストレートな指摘をすれば必ずその返答はまさしく「マイペンライ」なのである。元々謝罪すれば許されるというのは日本人固有の美徳であって日本以外の国々では共通して「非常識」である。謝罪したが最後責任を取らされるというのが世界の常識であり、したがって皆、謝らない。ミスを犯した者に詰め寄っても「マイペンライ(大丈夫)、こう軌道修正しましょう」といきなり提案として返って来る。この返答にいきり立って感情的になろうものなら、マイペンライな社会では「心の狭い、下品な人」という烙印を押されるだけのこととなる。

 場面を変えよう。例えば居酒屋でウェイトレスさんの手許が狂い料理の皿がひっくり返り、こちらの服が汚れたと仮定する。ここでもウェイトレスさんの第一声は「マイペンライ」だ。その意味は「拭いてあげるから大丈夫、あるいは料理を作り直してあげるから大丈夫」という悪気のない言葉なのだが、これに腹を立てなくなるには相当の年数を要する。「お前が大丈夫って言うなよ」と思ってしまうのが我々の心理だ。ただしここにはもう一つ、身分制社会という背景があり、一般的に(店のグレードにもよるが)客と店員の間には明らかに身分、つまり収入の大きな差があり、現実に弁償したくともその弁済能力を持たないからこそ現業職に留まっている訳だ。その様な人(大抵は若者)に金銭の弁済を強要するならば、これも「心の狭い、下品な人」と判断される。またグレードを一気に下げ屋台かオープン食堂でこの様な事態になっても、客の服装もぞんざいなものであろうから、これもそもそも「マイペンライ」なのである。

 とはいえ、特にビジネスの場面では、ミスを皆「マイペンライ」で不問にしたのでは組織の成長は見込めない。非常に難しいことではあるが、やはり文化の相互理解、つまり彼らの土俵まで下りてゆき、彼らの側の受け取り方を理解した上での接し方を大人として、理解者として考え、導くことができれば、必ずや互いの成長に結びつくと信じて精進するしかないだろう。

 もう一つ、「嘘」について。当地の人々はミスを指摘されそうになると、即座に一見納得させられそうな言い訳を思いつくという特技を持っており、この言い訳は相当な割合で嘘を含んでいる。これも責めること無かれ。彼ら、彼女らは「自分の立場を有利にするためなら嘘も方便」と、そう態度で示す親に育てられてきたのだ。これは私の目前で展開されてきた紛れもない事実である。

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