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「海外移住で体験したこと考えた事。三十年で出会ったもの」
東南アジアで着実に発展してきたタイ。この激動の時代三十年を起業家として生きた著者の、七転八倒の人生を伝えたい。ビジネスやプライベートで出会った人や家族、市民を従わせる者としか考えない官僚たち、ルール無用の商売人たち、偶然出会ってしまった事故や事件、経験を通し考察したこの国の社会、歴史まで。
著者: 小川邦弘
日本税理士合同事務所タイランド ogawa@nihon-zeirishi-cooperate.com

ヤンゴン・レポート

今回は、開放政策で注目を浴びているミャンマー、その首都ヤンゴンからの報告である。国土は日本の2倍弱、人口は約5千万というデータはあるが、英国の植民地から独立後、シャン族やカチン族といった山岳民族が独自の軍隊を持つ半独立地域もあり、データの信憑性はどうであろう。軍政から共和制に移行し現在では外資進出企業向けのダウェイ工業団地開発も始まり、日系大手企業の進出も決まっているという。軍政により立ち遅れた発展の結果、現在では人件費の安さが大きなメリットとなった訳である。 また、ルビー(世界シェア90%)等の宝石、石油、チーク等の木材、米(国土の60%が水田とも言われる)等の資源国でもあり、潜在力は非常に高い。

私は1984年に偶然この地を訪れ、2泊の滞在をした。その日ダッカ(バングラデシュ)発バンコク行きの便に乗り、降り立った空港が何とヤンゴン(当時の呼称はラングーン)であった。エンジン・トラブルで不時着し、2日後まで足止めをされたという懐かしい思い出だ。学生の身にて時間には余裕があり、当然宿泊や食事も航空会社持ちで、喜んで物見遊山を楽しんだものだ。当時の市内は車も少なく、市民の歩く速さが東南アジア一遅いと感じた。

さて、小奇麗な空港に降り立ち、ホテルへと移動したが、ここで1時間待たされる。経過は省略するが、スタッフが予約システムに対応できていない様だ。しかも滞在する外国人が急増したため、この4月よりホテル代は倍に跳ね上がっている。ホテルのロビーやレストランはあちらでもこちらでも商談花盛りである。ネット接続は問題ない、が、携帯が使用できない。この国で購入するSIMカード以外では通話できないという。これはすぐに改善されなければ大きなビジネス・リスクだ。

午後、繁華街は何処だと尋ね、タクシーを降りた場所は大きなマーケット(宝飾品や土産物が多い)の前であった。通路は少し暗い感じで、いかにも闇両替人らしい男性に為替レートを聞いたが、ホテルで両替するのとあまり差は無い。以前は実勢レートと公定レートの差が数10倍もあった筈だが、この点は改善されたのかも知れない。近くの交差点には如何にも日本人ビジネスマン向けのTRADERS HOTELがあり、その向かいにはSAKURA TOWERという、これも日系企業が集中的に入居している高層オフィス・ビルがそびえている。このビルの最上階はレストラン・ラウンジになっているので翌日訪れたが、夜景(但しあまり街は明るくない。パゴダはよく見える)を楽しめるのが売りの高級店だが、料理はまがい物のタイ・ベトナム料理や洋食で、あまり感心できる物では無かった。

近くのレストランで、ミャンマー製のビールをトライし、ウェイトレスのお譲さんにこの辺りのことを尋ねたり、近所の露店でアウンサンスーチー氏のキーホルダー(20円程)を購入してみたが、英語は普通に通じる様である。この点はバンコクよりも便利と云えるだろう。やはり元英国領ということか。タクシーの数は多く不自由はしないが、気を付けないと恐ろしく古い車に乗り合わせてしまう。足元から路面がよく見える、ドアの内張りなどとうの昔に朽ち果てている様な4~50年前(つまり私が幼少のころ見た)の車が元気に走り回っている。周囲は、繁華街といっても昔ながらの商店街があるだけで、特に気を引く物は無い。レストランなどはあちこちの通り沿いにポツンポツンと有る様だ。市内北部のインヤ湖周辺は観光地らしく綺麗な店が多いが、方向違いの郊外にはドキッとする様な貧民の家屋が集まっている地域もあった。またの機会にもレポート出来るかと思う。

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