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「海外移住で体験したこと考えた事。三十年で出会ったもの」
東南アジアで着実に発展してきたタイ。この激動の時代三十年を起業家として生きた著者の、七転八倒の人生を伝えたい。ビジネスやプライベートで出会った人や家族、市民を従わせる者としか考えない官僚たち、ルール無用の商売人たち、偶然出会ってしまった事故や事件、経験を通し考察したこの国の社会、歴史まで。
著者: 小川邦弘
日本税理士合同事務所タイランド ogawa@nihon-zeirishi-cooperate.com

1997年、タイにおけるアジア通貨危機

おや、やけに車が少ないぞ?

1997年7月初旬のある日、高速から一般道路(ラマ4世通り)への出口から住居周辺(スリウォン通りまでずっと渋滞の中を30分以上かけて帰るのが当たり前の道のりが、この日に限ってすいすいと走り10分程で到着してしまった。今から遡ること15年、その年の2月5日付で事務所を開業したばかりの私は、当然のことながらクライアントも少なく、事務所も郊外のバンナー通りにある、最初のクライアントの事務所の一角に居候し、我々夫婦と従業員1名で細々と運営をしていた。

翌朝のニュースで、タイ・バーツが大暴落したことを知る。偶然かも知れないが、昨夕の状態は前触れだったのでは無いかと思えた。実際それからの数カ月は車の混雑が緩和されたのである。1987年あたりからの投資ブームは首都圏のタイ市民を豊かにさせ購買意欲が高まり、ギリギリの額までローンを組んで日本市場価格の倍もする車、郊外で開発が進んでいた建売住宅を買う者が非常に多かった。通貨危機は彼らの失業または収入減を招き、銀行やファイナンスは山ほどの担保引き取り物件(車両や不動産)を抱える事態に陥った。

通貨危機の原因をおさらいしよう。それまで年9%の成長を維持できたタイ経済であったが、中国や他の東南アジア諸国へ投資が分散し始め、成長維持が困難になりつつあった。

また米国経済が上昇するにつれ、当時固定相場制(ドル・ペッグ制)を採っていたタイ・バーツの価値が実勢に関わらず同様に上昇した。これは通貨高により輸出を困難にさせる要因にもなる。元よりタイ政府は、金融緩和によって外資による投資を促し、これを成長戦略として実施してきたのだが、ヘッジ・ファンドはバーツ相場が過大評価されたものだとの見方をし始め、とうとうバーツの空売り、そして相場が暴落したら買い戻すという手法を取った為、政府も自国通貨を買い支えることが出来ず、変動相場制に移行した、という訳である。バーツの対ドル相場は、それまで24.5B/$であったものが1998年1月には56B/$まで落ち込んだ。そして同時期に同じ様な政策を取っていた近隣の東南アジア諸国や、韓国にまで飛び火したのである。

上記の住宅ブームも、外資が不動産開発企業に多額の投資をした結果である。

その後、インドネシアのスハルト政権と同様、タイのチャワリット・ヨンチャイユット内閣は失脚した。また、投資先としての東南アジアの信用レベルが低下し、中国への投資にさらに拍車がかかる、という結果も招いた。

IMFの要請であったかどうか定かでないが、翌年タイの歳入省は、企業の決算時に外貨建て負債をバーツ建てで再評価し計上することを義務付け、親会社からの恒常的な融資に頼っていた多くの日系企業は、営業利益は上げていながらもこの為替差損を計上し、大幅な赤字決算を強いられたものだ。

その後のタイは軽工業から重工業、つまり繊維あるいは労働集約産業から車産業へと徐々にシフトしている。それが功を奏したのか、ここ数年再び好景気に見舞われ、インフレが昂進し、労働力不足に悩む国となった。

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