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「海外移住で体験したこと考えた事。三十年で出会ったもの」
東南アジアで着実に発展してきたタイ。この激動の時代三十年を起業家として生きた著者の、七転八倒の人生を伝えたい。ビジネスやプライベートで出会った人や家族、市民を従わせる者としか考えない官僚たち、ルール無用の商売人たち、偶然出会ってしまった事故や事件、経験を通し考察したこの国の社会、歴史まで。
著者: 小川邦弘
日本税理士合同事務所タイランド ogawa@nihon-zeirishi-cooperate.com

初めて出会ったバンコク

 閑話休題。(こればかりという気もしなくはない)また私的な話になる。私が初めて当地に赴任したのは1987年2月のこと、26年前だ。

 交通渋滞もなし、市内の電車もなし、高層ビルも数えるほどで、いかにも東南アジアの安穏な都市、という風情であったが、当時政権が不安定であった近隣国に比べ、モノが溢れているなあ、という印象を持ったのをよく覚えている。

 移動手段は自家用車かタクシー、路線バス、そういえばソンテオ(2列の意)という、2tトラックの荷台に左右向かい合わせでシートを設えた乗合も多かった。完全な車社会で、しかも渋滞が無かった為、慣れてしまうと5分以上は歩きたくなくなるものである。長い雨季も、常にドアツードアの移動なので全く苦にはならなかった。しかし反面、都心でも水はけが悪いため洪水は日常的にあった。高層ビルのオフィスに勤めるOL達もこの頃はサンダル履きで、勤めを終えビルから吐き出された彼女らが、そのサンダルを両手にぶら下げ、水嵩の上がった都心の通りを裸足でバス停へ急ぐ(急げないが)姿も当たり前の光景だった。

 また携帯電話やFAXも存在しなかった時代で、大雨の翌日には従業員が「洪水で家から出られないので休ませてください」という連絡が多く隔世の感があるが、出勤している我々が外部に電話をかけてみると“ガガガーッ”という雑音が酷くてこれまた仕事にならない。

 FAXというものが導入されたのは数年後であり、海外との文書連絡はTELEXが唯一の手段だ。後にはワープロ専用機の様に電化されたが、当時のスタイルは先ず英文でタイプ打ちをし、終了キーを叩くとこれが点字の様に暗号化され規則的に穴の開いた紙テープが打ち出されてくる。そのテープを切断し送信用の定位置にセットする。それから送信先のTELEXナンバーで相手を呼び出し(相手国により国際回線が繋がるまでしばらく待たされる)、「CONNECTED」のサインが打ち出されてきたら送信キーを叩く。これでテープ読み取り機の“ダッダッダッダ”という重々しい音とともに送信される。以上の手順を踏まなければならないので、1本の連絡が大仕事だった。また送信先と繋がった状態でテープ送信をする前後あるいは送信をせずに、タイプ文書で会話が交わせた(今でいうチャットか)。

 また当時の邦人人口は確か1万人強であり、第三者の話題も「何々社の何々さん」で、「ああ、あの方ですね」と通じてしまう社会規模であり、また駐在員各氏もいわゆる社内で“アジア屋”と呼ばれる様な、アジアでの業務に精通した強者集団というイメージであった。

 もちろん邦人としての生活環境も整っておらず、日本人学校は諸先輩のご尽力で古くからあったものの、日本語メディアは現地で発行されている情報週刊紙が唯一のものであり、和食レストランも、超高級ホテルを除けば10数件ではなかったろうか?今現在ではバンコク市内に800件あると言われている。和食といえばこれらの店の限られたメニューを楽しみに出かけるか、数少ない輸入調味料と現地産材料をうまくアレンジし自ら調理をするか、まあ生活の工夫のし甲斐がある生活だったとも言える。

 やがて日系企業の進出が活発化し、引きずられる様に急速に都市化が始まり、発展や便利さと引き換えに交通渋滞が発生し、人々や社会がガラガラと音を立てる様に変化していったのは、その数年後からのことである。

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