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「海外移住で体験したこと考えた事。三十年で出会ったもの」
東南アジアで着実に発展してきたタイ。この激動の時代三十年を起業家として生きた著者の、七転八倒の人生を伝えたい。ビジネスやプライベートで出会った人や家族、市民を従わせる者としか考えない官僚たち、ルール無用の商売人たち、偶然出会ってしまった事故や事件、経験を通し考察したこの国の社会、歴史まで。
著者: 小川邦弘
日本税理士合同事務所タイランド ogawa@nihon-zeirishi-cooperate.com

タイの仏教

 企業の進出先としてのイメージばかりが先行する昨今、宗教などの文化的な話題は少し置き去りにされている感のあるここタイだが、実際には殆どの人々が敬虔なる仏教徒であり、それは生活の根幹である。

 日本では一般的に「小乗仏教」と呼ばれる上座部仏教は、インドから中国経由で伝来した我々の考える仏教とは少し趣が異なる。こちらはスリランカ、ミャンマーを経てタイやラオス、カンボジアに伝わったものである。学問的にはこちらの仏教が、仏陀が直接弟子たちに説いた教義をそのまま実践する純粋なもの、とされている。また当地では人々の生きる拠り所であると同時に、この仏教というものが政治行政と結びつき一体化したシステムとして機能している。

 国王は立憲王政上最高権力者であると同時に仏教界の頂点であり、敬称上の区別でも、僧侶と同様に俗界の人ではない。つまり仏教の信仰と国主への崇敬が一体化しているという見方もできる。そして実際にすべての国民から尊敬される存在であることに変わりはない。

 僧侶は早朝托鉢に歩き、供え物で朝食と昼前の食事を賄い、正午以降の食事は戒律上許されない。かつては僧侶の衣服である黄衣、托鉢用の鉢、煙草以外に個人所有は認められていなかったという程、厳しい戒律に沿った生活をしていた。禁酒や女性の体に触れないことなどは当たり前のことだが、殺生戒を守るため身体に蚊がとまればそっと避け、歩行の際にも蟻を踏まぬよう注意を払う、大声を出すことも慎む、という。若かりし頃、私はその様な生き方を美しいと思い、友人の一部にそのことを漏らしたのか、その後タイに赴任し友人への連絡が間延びした後では、「小川はタイで出家した」という噂が流れたことを随分後に聞いてこちらが驚いたものだ。

 庶民、特に純粋にタイ系の人たちの人生観は、常に仏様と共にある、といっても過言ではない。

 托鉢僧へのお供物、またはお寺へ参ること、これら信仰を表す行為はタンブン(徳を積む、の意)といって皆の生活の一部であり、これが精神安定のためにも大切なものであると考え、熱心な方は多くの知り合いから寄付を集め、お寺の施設を寄進する。

 もちろん男性は、義務ではないが短期間であっても僧修行をすることが大きなタンブン、であって最高の親孝行と認識している。ただし元々は7月の今頃(入安吾、カオパンサー、実は原稿を書いている今日がその日に当たる。我々にはつらい禁酒日である。なぜか禁じられると飲みたくなる。)から10月の出安吾、オークパンサーまでの3か月を修業の時期としていたが、やはり経済社会の発展にしたがい短縮され、現在では1週間程度の出家が一般的である。また、求婚している女性の親御さんに大人の男性として認めてもらうというのも一つの目的らしい。

 もう一つ、信仰と大いに関連のある死生観について触れておくが、当地の人々は生命の絶える時期について「これが仏様にいただいた我々の寿命である」という感覚を持っている。身内の不幸に遭った人に対し年上の者が、この様な慰め方をよくする。また医師の側の死生観もこの様なものであり、死に瀕する患者さんに対して必死な延命行為を行わず、家族に判断を委ねる。すると家族の側も「それでは」とそのまま自宅へ引き取ったりもする。わが国では法律的にもかなり厳しい場面だが、私個人としては自然の法則に従った潔い逝き来、ではないかと思ってしまう。無理矢理のの延命措置のために皆が右往左往するのは、逝く人の幸福を思ってのことなのか。。。

 この様なタイミングで、私は自分を戒める意味もあり仏教というテーマを選んだ。たまには素面で人生を思う夜も良かろう。 

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