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「海外移住で体験したこと考えた事。三十年で出会ったもの」
東南アジアで着実に発展してきたタイ。この激動の時代三十年を起業家として生きた著者の、七転八倒の人生を伝えたい。ビジネスやプライベートで出会った人や家族、市民を従わせる者としか考えない官僚たち、ルール無用の商売人たち、偶然出会ってしまった事故や事件、経験を通し考察したこの国の社会、歴史まで。
著者: 小川邦弘
日本税理士合同事務所タイランド ogawa@nihon-zeirishi-cooperate.com

赤シャツ・黄色シャツ・マルチカラー(2010年タイの政治騒乱)その2

「ズガーン!」という爆裂音が2回響き、バタバタと我先に避難する群衆が傍らを通り過ぎた。5月初旬のある日、午後9時過ぎのことであった。呑気な話だがこの時私は、報道に関わる友人と二人、赤シャツ派デモ隊が膨れ上がりバリケードの最前線となっていたルンピニ公園に相対するシーロム通りのパブでビールを酌み交わしていた。店のガラス窓の前には、陸軍の装甲車が待機している。ここなら物理的に危険は無かろうと考えたのだ。

この店に入る前、午後6時半頃のことであったが、つい最近組織されたと言われている「マルチカラー」と呼ばれる人たちが、ラマ4世通りを挟んだ最前線に集結し、「赤シャツ出ていけ!」「バカ者出て行け!」と大声でシュプレヒコールを上げていた。その数は5~600名くらいであったろうか?この人たちは、同胞が政治の為に二派に分かれ、暴力沙汰にまでエスカレートしている事態を憂い、和解を訴える為自然発生的に集まって来たのだ。

私は状況を確かめるため最前線まで歩を進めたが、群集心理というのか皆興奮気味であり、感情的な罵声は非常に危険だと感じ、いや早くビールが飲みたいがために、すぐに引き返してきた。

翌日のニュースで確認できたのだが、あの2発の爆音はルンピニ側の赤シャツ派バリケード内から発射されたグレネード弾(手榴弾様の小型爆弾を発射する武器)が我々のいたシーロム通りに撃ち込まれ、結果一般市民8名の命を奪った。

海外逃亡中の刑事犯罪人である前首相が、祖国を追われたことに対する復讐心からか或いは、不正蓄財をした莫大な財産を費やし何れは政界に返り咲こうという黒い目的の為に、
さらに一般市民の命が犠牲にされた。この悲劇が起きた翌日、やっと重い腰を上げたタイ国陸軍が私の生活圏(事務所も自宅もこの地域にある)であるシーロム地区をブロックする為、有刺鉄線を張りかなりの人数の兵士を常駐させることとなった。とは云え夜の繁華街は営業を続けており、田舎のキャンプから派兵された若い兵士が、機関銃を担いだままゴーゴーバーの入口に群がり、水着姿の踊り子に見入っている様子は、やはり南国らしい長閑さであった。

その後も内乱は治まらず、双方の犠牲者は増えるばかりで、すでにロイター通信のカメラマン村本氏も取材中に被弾し死亡しており、赤シャツ側に与したカティヤ陸軍少将が何者かに狙撃され死亡した。身近な話では私のクライアントである企業の従業員も、バイクでの通勤途上、狙撃により頸椎貫通で即死した。

最後の数日間は、私の就寝中もライフルのパンパンという乾いた銃声が聞こえ、銃声を子守唄に眠るという初めての経験をしたのだ。そして・・

5月19日早暁おそらくは午前3~4時頃、浅い眠りの中で私はかなりの台数の重量車両が、マンションの寝室から30m程先のサトーン通りをサーっと通り過ぎて行くのを確かに感じていた。早朝、ラマ4世通りの最前線に整然と隊列を整えた装甲車が、一斉にデモ隊の築いたバリケードを破り、銃撃戦を続けながら占拠地の中心ラプラソン交差点に到着するころ、デモ隊の首謀者は、活動停止を宣言した。

一体何のための犠牲者だったのか、何故政府はデモ隊の占拠開始時に素早く国軍を動かせなかったのか。

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